日本の文化こぼれ話1~妖刀「村正」VS波泳ぎ「兼光」~
妖刀の代名詞、村正の呪怨とは!?
徳川家を苦しめたとされる妖刀の代表格村正。
室町時代末期~戦国乱世にかけて伊勢国で活躍した「千五村正」が刀・短刀を手掛けたとして有名です。
妖刀と呼ばれる理由として、徳川家康とその一族代々にわたり災いをもたらしたことがあげられます。
村正の刀によって不幸な死を遂げた徳川一族(家康の出自は三河国の松平氏)
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・祖父の松平清康→合戦の混乱中に死亡
・父の広忠→城中で乱心した家臣に襲われ死亡
・嫡男(正室の生んだ男子)の信康→織田信長の意向で切腹のときの介錯人(切腹する際に首を斬り手助けする)と村正の刀にかかっていずれも不幸な死を遂げる
また、家康も今川氏の人質として暮らした少年時代に村正で誤って手を切ったことや、関ヶ原の戦いの勝利後、槍で指を傷つけたことがあります。
槍の事故では村正の刀だと知った家康は激昂し、席を蹴り上げ立ち去りました。
徳川の天下となったこの時代、諸藩の大名たちは村正の刀を持つことを慎み、すでに持っていた者は口外せずにいたようです。
いつ斬られたの?切れ味鋭い利刀、波泳ぎ兼光
刀剣を愛好する武田信玄はもちろん、数々の名刀を秘蔵した上杉謙信のもとには「備前長船一門」の作刀が数多く集められました。
「二代長船兼光」が作った豪壮な太刀は、鎌倉時代末期~南北朝時代の戦国武将にも好まれその切れ味のよさからもこんなエピソードがあります。
「斬られた者が川に飛び込み、しばらく泳いだ後に首が落ちた」
「真っ二つに切れたことで『波泳ぎ』と呼ばれた」
誰が刀を振り下ろしたのかは伝わってはいませんが、紙で手を切っただけでも痛いと感じてしまうのに、刀で斬撃を浴びせていながら気づかせないとは遣い手も相当なものです。
もう一つの説では彫刻を得意とした兼光ですが、彫った竜があたかも波間を泳いでいるかのように見えたことで「波泳ぎ」の異名がつけられたともいわれています。